脊椎・脊髄・神経外科外来
診療科・部門紹介
生涯執刀5000例 令和5年2月達成記念
-64歳 脊椎末梢神経レスキュー医の今後の抱負-
盛岡友愛病院に勤務して、16年が過ぎた。私は青森県三戸郡田子町出身、田子小学校、中学校、八戸高校、福島県立医大卒業である。田子と盛岡との関係はここでは述べないが歴史上、南部信直公にある。後半の医師人生を多少なりとも、ふるさとに貢献したいと思い、前任地の大阪市からやって来た。その後、主に岩手県、青森県の大半の口コミ患者さんに16年間で顕微鏡下脊椎手術と末梢神経外科手術を合わせて約3500人に行なった。
64歳の現在、体力が落ち、持病持ち、さらに残念ながら一人医長業務である。自身の体調の維持やマンパワー的にも出来ないことは出来ないと申し上げている。私の残りが見えてきた脊椎神経外科医人生を今後、より効率的になるべく長くやっていきたいので、ここで改めて現況、得意分野、不得意分野を述べたい。要は今後は体力、気力を温存しながら、長く培ってきた得意分野に限定して、社会貢献して行きたいと思っている。不得意分野は例えば、整形外科開業医の先生方に任せたい骨粗鬆症性に関与する腰痛、骨折、肩凝り、膝痛診療などである。また、手術では金属、インプラント使用の手術は現在は人的かつ体力的に全く行っていない。
得意分野は、上肢や下肢のシビレや神経痛の鑑別高位部位診断、手術は低侵襲な脊椎顕微鏡下除圧術や手根管症候群や肘部菅症候群の手術である。
さてこの度、令和5年2月、生涯執刀5000例( 脊椎外科4000例 )達成記念として以下の文章を、脊椎末梢神経外科外来のホームページ内に載せることとした。
私に元気、やる気そして誇りをくれた七つの名言
-故菊地臣一福島県立医科大学学長式辞から-
私は医師になってあっという間に40年が経ち、64歳になった。昭和58年福島医大卒業後、10年弱を母校の整形外科関連で研修した。故菊地臣一前福島県立医科大学学長は母校の整形外科の先輩で専門は脊椎外科医、そして国際腰椎学会会長にまでなった方である。私は菊地先生の講師時代(机が隣りの隣り)に指導を受けた。さて学長は卒業式や入学式で式辞を述べるわけだが、菊地前学長のその内容は素晴らしく、かつ詩人的であり、その全文が以前、福島県立医科大学のホームページに載せてあった。私はそれのすべてを保存して、辛い時にこの文章から元気、やる気、そして誇りをもらってきた。今回、私の脊椎末梢神経外科生涯執刀手術5000例達成の記念として、菊地先生の七つの好きな名言を紹介し、自分の外科医人生と照らし合わせ、振り返ってみることにした。
さて、私は平成元年7月から統計ノートに自分が執刀したすべての脊椎外科手術と末梢神経外科手術例を今まで記録してきた。第一例目の脊椎手術は平成元年7月8日で頸髄症に対する椎弓形成術であった。指導医はなんと菊地臣一先生であった。32年後の令和5年2月の現在、それぞれ4063例、975例で顕微鏡下脊椎外科手術が4000例に達した。脊椎外科と末梢神経外科を合わせれば、合計で5000例を越した。私の外科医人生40年の中心は、やはり手術を執刀する医師であった。
名言1.「人生の扉は他人が開く」
卒後10年時、あることがきっかけで医師としての自信を失い、挫折していた私を再び、大阪に呼んでいただいた、以前に内地留学で指導を受けた恩師故松田英雄先生により、その後の人生はこの名言どおりなった。その3年後、大阪市立総合医療センターに就職してから11年間、脊椎外科、腕神経叢損傷を含めた末梢神経外科、筋腱移行術による運動機能再建、電気生理検査による脊髄、馬尾、神経根、末梢神経機能診断、さらには四肢開放損傷に対する血管柄付き遊離組織移植と師匠の幅広くて、ヘビーな専門分野を18階建ての大都会の第一線病院で若い医師らと忙しく働いた。いろいろ珍しい手術もたくさん経験したが、やはり最も手術症例が多かったのは腰椎変性疾患であった。福島医大式責任高位部位診断や電気生理学的診断を大阪の研修医らに指導しながら、多くの顕微鏡下脊椎手術を行った。師匠の弟である松田英樹部長はそれらの良き理解者であり、私に伸び伸びと仕事をさせてくれた。
名言2.「組織に賭けずに個人に賭けよ。」
名言3. 「悔しさ、無念、そして挫折を生きて行くバネにすることです。劣等感こそが成長の鍵です。」
大阪市立総合医療センターに勤める前のフリーな時間がとれる時期に、卒後10年時の「挫折と劣等感、悔しさ、無念がバネ」となり、組織の長の紹介状なしでの武者修行をした。広島市立安佐市民病院の故馬場逸志先生と東大整形外科の長野昭先生の「個人」技を学びたいと一年間くらい、二週間に一度ずつ、交互に一泊二日で見学に行った。馬場先生はじめ、故住田忠幸先生にはその「出会い」後もずっと暖かく指導していただいた。
名言4. 「出会いを大切に」
今から17年前にも二度目の「無念、悔しさ、挫折」を味わった。この時もそれを「バネ」に、大阪から再び広島と大津市民病院脳外科へ手術見学にしばらく通った。結局、親孝行もできると思い、岩手県盛岡友愛病院に直接、個人交渉で赴任した。とはいえ、全く見ず知らずの地域でのゼロからの再出発であった。広島の住田先生には最高級手術用顕微鏡購入時にも相談に乗っていただいた。この手術用顕微鏡は16年後の現在も活躍中で、これまで2500例以上の手術に使用している。私を信用して購入を決断していただいた小暮信人前理事長には改めて感謝を述べたい。そんな訳で住田先生との「出会い」にも大変感謝している。
さて近年、私は60歳を超えて一人常勤で看護師助手での脊椎外科手術が体力的にも精神的にもきつくなってきた頃、麻酔科のベテラン女医さんが以前、整形外科医だった彼女の旦那さんを私に紹介してくれた。三年前から週一日、脊椎外科 二例の手術助手をしてもらい、大変助かっている。この「出会い」により、後に説明する神経レスキュー医人生を伸ばしてもらっている。まさに「出会いを大切に」である。
名言5.「愚直なる継続は誰もができる最大の武器であり、大成する王道です。」
この名言は菊地先生の式辞では常に述べられている。先生が教育者として、一番強調したい言葉であると感じる。私の場合、卒後10年頃から30年後の64歳の現在まで、「愚直」に脊椎外科と末梢神経外科の責任高位部位診断および手術用顕微鏡下脊椎手術と拡大鏡下末梢神経手術を神経レスキュー医として「継続」してきた。手術の達人、住田先生の教え「常に向上心を持って」にて、最近では術前の症候とMRI及びCT所見との対比から、術中の顕微鏡視下所見を予測して手術が行えるようになってきた。
また、15年間の大阪時代に指導した整形外科研修医の中で10数人が、後に脊椎外科指導医や手外科専門医になり、現在関西地区で指導的医師として活躍している。また、盛岡に来てからは一人だけ、福島医大整形外科同門の先輩の息子さんを四年間ほど、マンツーマンで指導した。現在、彼は隣県の民間病院に一人医長で勤めていて、名医の評判で顕微鏡下脊椎手術待ちが五ヶ月と成長していて、大変嬉しく思っている。大半がやはり、口コミ患者さんとのことである。
最後に
名言6.「君達は医療人としての最後や人生の黄昏に立った時、必ず問われます。自分は誇りを持ってぶれずに最後まで生きてきたかと」
名言7. 「他人の評価はどうでも良いのです。大事なことは自分がどう評価したかです。今日から君達は何になったかではなく、何をしたかに価値観をおいて下さい。」
福島県外で脊椎・末梢神経外科領域の手術を行う神経レスキュー医として、さまざまな「出会い」のおかげで「誇りを持って30年間、ぶれずに」「愚直なる継続」ができたひとつには、福島医大式責任高位部位診断学と言う強みが私にあったからだと母校の先輩方に感謝したい。見ず知らずの地域の民間病院で16年前、ゼロから始めた脊椎、末梢神経外科外来に口コミ患者さんがたくさん来られ、岩手では3000例以上の手術を行なってきた。どんなことがあっても、「誇りを持ってぶれずに」、小規模ゆえにやれる範囲で仕事が続けられたのは、菊地先生の式辞からいつも元気、やる気、そして誇りをもらったおかげである。遠くて離れた県外だからこそ、その有り難みがわかるのであろう。まさに感謝、感謝である。
今、我が医師人生を振り返れば、「患者さんに優しい手術療法を中心にやりたいことが長い期間、たくさんできたこと」、前述した「かつて自分が指導した中の10数人の整形外科医が今、各地で手術療法を中心に活躍していること」、その二点だけでも「他人の評価」はどうであれ、「自分の評価」としては地位も肩書きも無かったが、「自分の仕事に誇りを持ってぶれずにいままで生きてきた」と満足している。64歳の今、当面の目標は顕微鏡下脊椎外科手術はまずはイチロー選手の通算安打数の4367、次は5000例、末梢神経外科手術は1000例であるが、今までの働き方ではあっという間に人生が終わってしまうので、また違った「愚直なる継続」の仕方を模索し始めている今日この頃である。