自己紹介と今後の抱負
診療科・部門紹介
本年、2015年8月で盛岡友愛病院勤務開始からちょうど10年となった。
ところで盛岡友愛病院 脊椎・脊髄・神経外科外来のホームページ内の最尾にあるメッセージは2010年12月が最後でかなり古くなった。最近たまたま、母校の福島医大整形外科同窓会誌へ依頼を受け投稿した。今回、自分で友愛病院10周年勤務記念として、投稿した文章を少し改編して、ここに載せることにした。
私の専門分野の詳細などに関して書いたが、何かの参考になれば幸いである。
以下読んでいただけるとわかると思うが、私の得意とするところは臀部から末梢の下肢の痛み、シビレ、運動麻痺を呈した腰椎椎間板ヘルニア、腰部脊 柱管狭窄症の診断・治療、上肢・手のシビレ、運動障害を呈した手根管症候群、肘部管症候群、頸部脊髄症、頸部神経根症の診断・治療である。
逆に強調したいのは、腰椎の変形や骨粗鬆性の脊椎変形による腰痛や姿勢異常、ストレスによる腰痛、交通事故によるむちうち損傷は得意とするところではない。
福島医大整形外科医同窓会誌から改編
先日、尊敬する福島医大整形外科同窓会長 古川浩三郎先生から盛岡の病院に電話を頂いた。
最近の同窓会誌の内容が大学医局の先生方の話に偏りすぎで、医局を出て年月が経った先生方にも投稿してほしいとのことだった。多分、ユニークな経歴の私にもどんな内容でもよいから投稿をとのことであった。
私は約30年前、27歳頃、古川先生のもとで研修はできなかったが、その堅実で丁寧な診療を国立郡山病院で見学したく、週一のパートを希望して何十回と行った記憶がある。その際に兄の剣道肘の手術もお願いして執刀していただいた。そんな思い出のある古川先生から超久しぶりに電話をいただいて嬉しかった。そこで古川先生の頼みならば、書いてみることに決めた。
私は昭和63年、 29歳時、大阪市大 松田英雄先生のもとで脊髄、馬尾、 神経根、 腕神経叢、末梢神経に関する電気生理と外科的疾患の勉強に一年間、出していただいた。その後、現在まで脊椎外科と末梢神経外科の両方が専門であることを貫きとうしている。
1989年、平成元年7月、 30歳時に福島医大整形に戻った。
この時から現在まで27年間、自分が執刀した脊椎手術と末梢神経外科手術のデータを統計ノートにそれぞれ、書き続けている。本日、久しぶりに6冊ある脊椎外科ノートの1冊目の第1ページを見ると第1例目1989年、 平成元年7月13日52歳 女性、頸椎症性脊髄症 C3-7平林式脊柱管拡大術。光栄にも指導医 菊地臣一先生(現学長)と書いてあった。
末梢神経外科ノート 第1例目 平成元年7月4日37歳 女性、右手根管症候群 開放術。
そして2015年、平成27年9月30日の現在、 脊椎手術2895例目 頚椎症性脊髄症、 末梢神経外科757例目 右手根管症候群。総計で3652例。「光陰矢のごとし」第1例目から27年、大学卒業からは33年も経ってしまった。脊椎手術の40例目以降、脊椎固定術以外はすべて手術用顕微鏡下手術である。
縁あって再び34歳から47歳まで大阪で暮らした。
36歳時、松田英雄先生の弟の英樹先生が部長で勤務していた大阪市立総合医療センターに勤め始めて、47歳まで働いた。
人生の午後1時頃と言える40歳頃、励みにしていた言葉は本田宗一郎の「好きこそものの上手なれ」、堀場製作所の社是「おもしろおかしく」、森信三の「人生二度なし」であった。
この時期は総合医療センターで研修医、研究医らと長時間の手術も時々行っていた。
さて、念を押すが何を書いても良いとのことで以下、私自身のこれまでの手術や臨床研究に関するプチ自慢について語りたい。自慢したい順序に5項目につき述べたい。
1. 「頸部神経根症による片側上肢運動麻痺例に対する顕微鏡下後方椎間孔拡大術」
1996年、平成8年2月23日42歳 男性、 右肩挙上、肘屈曲障害を呈した近位型の第1例目(脊椎手術例No.50, 右C5/6椎間)を大阪で施行した。この例では術中、最後に運動麻痺を説明しうる右C6神経根前根の腋窩から直下に椎体後方骨棘が残り、神経根に食い込んでいた。そしてこの骨棘を顕微鏡下に除去した。この患者さんの成績は良好で次の症例に進んでいった。
同様に片側の下垂指・手内在筋筋力低下を呈した遠位型の神経根単独障害例に対する第1例目は2001年 平成13年4月1日 44歳 男性(No.471)、右 C6/7、C7/T1の二椎間に施行した。
この近位型でも遠位型でも片側上肢運動麻痺をきたした頸部神経根症の高位診断と手術治療に対して、最初から自信を持って開始できた理由は以下の4つが重なったことによる。
第1は松田英雄先生や35歳から36歳時、見学によく行った東大時代の長野昭先生の教えから腕神経叢損傷患者の全型以外の神経症状を障害神経根別あるいは障害末梢神経別に高いレベルで高位診断できるようになっていたので、それを変性疾患による運動麻痺の強い頸部神経根症に応用できたこと。
第2には福島医大整形外科関連の先輩方から当時の高いレベルの頸部神経根や腰仙部神経根障害に関した臨床的知識や興味、そしてモチベーションを研修医・研究医時代に持てたこと。
第3は1993、1994年と2005年に何十回と見学に行った私の大好きな「本物志向」の広島市立安佐市民病院 故馬場逸志先生、住田忠幸先生から華麗な顕微鏡下後方頚椎椎間孔拡大術を教えてもらったこと。
第4は大阪市立総合医療センターという大都会の真ん中にある大病院の看板の存在と上司が自分の師匠の弟先生であり、新しいことに挑戦することへの良き理解者であったことによる。
次に述べる腰部脊柱管狭窄症の手術法も同様である。
これら4つが重なっての世界で最初の臨床における術中神経根所見の提示と術後成績に関した報告と思っている(1998年 中部整災誌, 2001年 日整会総会ビデオ演題 千葉)。
なんせ発表当時、欧米も含め、後方から術中神経根所見を提示した臨床例の論文はいくら捜しても存在しなかった。あれから現在まで近位型は40例、遠位型は15例ほどの手術を経験した。私は今の全国においても脊椎外科医の多くはこの領域をきちんと診断できる先生がかなり少ないのではと思っている。
2. 後方構築要素温存で低侵襲な「腰部脊柱管狭窄症に対する顕微鏡下片側進入・両側除圧術」とそれからの「腰椎変性すべり症に対する顕微鏡下片側進入・両側除圧術」へ
1998年、平成10年7月3日に73歳女性 L3/4、L4/5の二椎間の症例を1例目(No.272)として行った。
その前年の1997年、大阪での山野慶樹先生が会長であった中部整災で故マッカロー先生が講演に来た際に懇親会場で挨拶し、セントルイスでの手術セミナーまで行って教わった。
そして本邦の整形外科では初めての報告(1999年、日整会総会ビデオ演題、横浜)をした。
変性すべりの腰部脊柱管狭窄症に対する本法の報告は世界初である。
いわき共立病院や福島医大や東北大での変性すべりに対する開窓術の成績を身近で見てきたので、これはいけると当初から確信していた。
満を持して行った第1例目は翌年、1999年2月8日74歳 女性、 第4腰椎変性すべりによる両側L5神経根障害例に対し、L4/5一椎間例(No.311)に施行した。
2001年、平成13年4月の日本脊椎脊髄病学会(高知)で腰椎変性すべりに対するそれを初めて発表したが、危険でとても受け入れられないとの強烈な批判を浴びた。ところが最近、ある学会の抄録を見ていたら、その批判した先生の施設から片側進入・両側除圧術の報告があった。この方法も約10数年を経て一般的になってきた。最近では当時研究医だった先生が総合医療センターで施行した約1000例の手術成績を報告している。
3. 「L5/S1椎間孔外の L5神経根障害に対する後外側からの顕微鏡下除圧術」
話はさかのぼるがこの手術もその当時、日本で初めてであると認識したうえで手術を行った。
私の腰椎椎間孔内・外部での神経根障害に関する強い興味・思い入れは1984年、昭和59年の福島赤十字病院(田島 健先生)での初期研修1年間の強烈な経験なしには語れない。
1994年、平成6年11月12日 82歳女性(No.87)、 県立喜多方病院において第1例目を後輩の大谷晃司先生(近年,タケちゃん・北野武の健康番組によく出る大谷教授)と行った。「顕微鏡下外側開窓による腰椎椎間孔内・外ヘルニア摘出術」は欧米の神経外科医の論文やマッカロー先生の本で勉強し、後輩(これも自慢だが東医体・卓球ダブルス部門で二連覇したパートナー)の横村先生と1993年、平成5年8月18日 これも県立喜多方病院で47歳男性、 L3/4椎間L3根障害例(No.33)に対し施行した。
その後、大阪で超積極的に顕微鏡下外側開窓によるヘルニア摘出や椎間孔内・外狭窄例の除圧術を重ねた。
その当時、日本では報告がなかったので中部整災や日整会総会で数回にわたり報告したが、顕微鏡下での本法は注目されず、声の大きい還納式椎弓形成による方法が主流であり。我々の方法では除圧不足になるとまで批判されることがあった。
これもまた、驚くことに2000年を過ぎてから我々の報告に対して批判的だった施設から、内視鏡下外側開窓術の報告が初めて出たのである。
4.「 L5/S1椎間孔内・外部でのL5神経根障害に対する術中L5神経根活動電位導出」,「頸部神経根症での術中神経根活動電位導出」、「 腰部脊柱管狭窄症 除圧前の術中馬尾伝導速度」
1995年 平成7年12月15日,53歳男性、多数回腰椎手術例といわれて来院した症例に対して片側のL5/S1椎間孔外障害(No.143)によるL5神経根障害と診断し,外側開窓から除圧術を行った。
術中に初めて腓骨神経刺激によるL5神経根活動電位導出を試みた。波形分析を行い脊髄機能診断学に投稿した。
また、除圧後ではあるが頚椎症性神経根症での後方からの術中神経根活動電位による波形分析に関しても1999年、札幌の日本脊椎脊髄病学会でビデオ報告し、後に脊椎脊髄ジャーナルに論文を書いた。
この分野においては欧米では術中の電位導出の報告は皆無であり、日本初はすなわち、世界初の臨床研究であった。
私自身の電気生理の中で専門分野としたのは、福島医大関連での研修で興味を持った「神経根活動電位」と「馬尾活動電位」に関するものであった。平成元年、30歳頃、福島医大でも硬膜外カテーテル電極から、いろいろなシチュエーションで馬尾活動電位を測定し、馬尾性間欠跛行の機能的評価を行ったのは懐かしい思い出である。
その後、松田英雄先生のもとで腰部脊柱管狭窄症例の術中除圧前、多椎間からの電位導出波形から馬尾伝導速度を分析、脊椎脊髄ジャーナルと臨床脳波という雑誌に投稿した。
5. 「絞扼性末梢神経障害に対する治療前後での遠位運動潜時の経時的変化について」
1989年 平成元年頃、福島医大麻痺クリニックにいた時期で仲間も多く、元気いっぱいだった頃で手根管症候群や肘部管症候群の術前、そして術後早期からの遠位運動潜時の回復過程や手根管症候群保存治療例で夜間シーネの効果をしつこく経時的に遠位潜時でみた報告をした。その頃、世界でもこのような報告がなかったことがその後、10年以上経てから日本手外科学会などで知った。今では絞扼性神経障害に対する電気診断は当たり前な時代になっている。
以上5項目について述べたが、一般の方には専門すぎて難しすぎたかと思う。
自分の師匠・松田英雄先生は世界初あるいは世界一、日本初あるいは日本一という事が好きな先生で、その影響で内容が自慢気にならざるを得なかった。
読み返してみれば、つい書きすぎてプチ自慢ではなく自慢しまくり文章になってしまった。
最後まで投稿をやめるか、あるいは3年後の還暦記念にするかとも考えた。しかし過去の記憶の整理として個人的には役立つし、古川先生をがっかりさせたくはないと思って結局、恥を忍んで今回投稿することとした。
さて47歳時、大阪から実家(青森県田子町、にんにくの町)の近くに戻ることを計画した。
自分で盛岡友愛病院経営者に安佐市民病院仕様の手術用顕微鏡購入を条件に交渉して、勤め始めて今年平成27年8月で丁度、10年が経ち、この間で脊椎外科1900例、末梢神経外科300例を執刀した。
診療域は広い県ゆえに広大(実家近くの青森県南部地方も含む)である。
5年前、ストレス性気管支喘息と嗅覚障害を呈した副鼻腔炎になり、後者に対しては手術まで受けた。
最近一人常勤では体力に自信がなくなってきたが、根っからの手術メインの生活は変わってはいない。
私の利き手である右の第一背側骨間筋は長年のケリソンロンジュールと鋭匙やエアードリルの使いすぎで数年前から過形成となり、腫瘤様に腫れてきている。
現在は日常頻度の高い疾患のみ、すなわち腰部脊柱管狭窄症、腰椎椎間板ヘルニア、頸部脊髄症,頸部神経根症、胸椎黄色靭帯骨化症に対する後方顕微鏡下手術(平均1.5時間程度)、末梢神経は手根管、肘部管症候群の拡大鏡下手術のみを年間、脊椎180例ほど、末梢神経30例ほど執刀している。
やはり、口コミで自分を頼ってきて自分で高位部位診断をして、その診断根拠もきちんと説明し、自分の経歴と実績も患者・家族に話し、自分の得意な顕微鏡あるいは拡大鏡下除圧で症状の消失や軽減が得られた時の心地良い気分・喜びはいまだやめられないでいる最大の要因である。
時に考えられない合併症を生じ、もう自分も歳だし、メスを置こうかなと思ったこともあった。
2年前、たまたま金沢脳神経外科の佐藤秀次先生のブログを読むと(脊椎疾患 の顕微鏡下手術を多く手掛けている先生)、「自分は神経のレスキュー隊だと思って仕事をしている」と述べていた。
神経が骨・軟骨・靭帯などに埋まって圧迫されて助けてくれと叫んでいる、これを上手に救ってやる仕事だと・・・.私も50歳半ばでこの言葉を座右の銘にし、まだまだ自信を失わず世の中・社会に役立ちたいと元気を貰っている。
やはりまた、脊椎手術が多い富山県高岡市 沢田病院の病院目標 「 5S SAFE、SPEED、SPECIALITY、SPIRIT、SMILE 」も数年前から気にいって自分も使っている.
今後も患者さんにとって私のキャリアとスキルが役立つ間は、そして大病に罹らない間は好きな顕微鏡下脊椎手術と絞扼性末梢神経障害手術を「神経レスキュー医」として、無理しない程度に続けたいと考えている。
「働ける間は働くことが天命 やるべきことがある人は幸せなのであろう。」
1983年、昭和58年3月 福島医大卒業後、多くの先生方や名医との出会いがあった。
私は57歳になる今、出世・肩書・地位という面では、それらの好運を生かせなかったかもしれない。
しかしながら、現在も「継続」して神経障害の高位・部位診断や顕微鏡下脊椎手術が好きで、これが楽しく感じられている。
そしてそれが世の中の人(特にふるさとあるいは東北地方の人)に喜ばれることが多い分野であると確信できており、これだけで充分である。学生時代、卓球とアルペンスキーのしすぎで同級生からは福島医大体育学部と言われていた人間がこのような「天職」と言える分野を若い頃、よく選択したものだと神様に感謝している。
最後に50歳後半となった今、私が元気をもらう言葉を羅列して終わりとしたい.
「人生の秘伝 好きなことをして暮らせ」、「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」、「敢えて主とならず客となる」、「人に向かわず天に向かえ」、「いい加減に生きる」、「自分流で文句なし」。